さくらだより第20集

 昨年、さくらだよりを書いている時には、クライストチャーチ近郊の地震により、日本人留学生が多く居た建物が跡形もなく崩れ落ちて、多くの若い命が亡くなったことを伝えていた。崩壊した建物の周囲の建築物は崩れておらず、被害に遭った若者たちのことを思って、なんともやりきれない気分であったことを、今思い出している。

三月十一日金曜日
 南半球の地震のことを一瞬にして過去の出来事として追いやるほどの大事件が、日本近海の地下深くで進行していたとは・・・・。  
 二時四十六分 この時間をいつものように過ごしていた。小さな揺れも感じなかった。三時前、一人の男性が処方箋を持って薬局に来られる。
「すごいことになっているよ! テレビをつけてごらん・・・・」と言われる。ほどなく薬の問屋さんが東北の地震と津波のことを教えてくれる。薬局にはテレビはなく、携帯電話で津波が押し寄せている映像を見て、びっくり。阪神大震災のことを思い出す。
 あの時も寒い時であった。火の手があちこちから起こっていつまでも鎮火しなかった。  遺体安置所になっている小学校に次々と遺体が運ばれていたようで、そんなことに初めて遭遇した友人たちは、電話の向こうで苛立っていた。

 交通渋滞が大変で、とにかく被災地から一時的にでも外へ出た方が良いのに・・・と、友人たちに何度も言ったことを思い出す。
 空き巣狙いが流行(?)していると、被災した友人は言った。
 避難所で風邪が流行して、風邪薬と湯たんぽを送って欲しいとの依頼があった。かろうじて建物が残った友人の父親の会社宛に、宅急便で送った。
 家の中にはガラス片が散乱して、冷蔵庫の中身も飛び出していると言っていた。 しばらくして、お風呂には一週間ぶりに入ったと言っていた。ドライシャンプーを送って欲しいと友人は言った。  当時山陽団地に来られた被災者の方で、「水が出ない状況下で術者の手も真っ黒な状態で、怪我の処置を受けた」と不安そうに話しておられたのを思い出す。

 この時の話を思い起して、何かできることはないか?と考えるも、今回の被災地は遠過ぎる。
 被災地近くの懇意な友人を思い起こしてみるも、思い浮かばない。  押し寄せる津波の映像を見せらせるばかりで、現地の状況がわからない。  

  <葛飾北斎「富嶽三十六景」>

 その日は普段より多い枚数の処方箋を受け付けた後、急いで帰宅しテレビをつけて、破壊のものすごさを知る。石油タンクが燃えていた。
 福島原子力発電所の全所停電を知る。それでも、発電所である。すぐに電気は復旧すると、漠然と思った。以前の中越沖地震の際に、刈羽柏崎発電所から煙が上がっている映像を見た時に比べて、恐怖を感じなかったのを覚えている。
 現地の人々は寒い中を避難されているので、阪神大震災の時と同じように、暖房をつけず毛布をかぶって、テレビの画面に釘付け。うつらうつらしながら朝を迎える。
 原子力発電所が深刻な状態らしい。総理大臣が、原子力発電所を視察されるとは、なんとも不気味。何かがおかしい。
 これで日本も終わりなのか?

避難勧告 ベント チェルノブイリか?
 

 予想もしない言葉が、テレビの画面から流れる。後に思い返してみると、科学技術に長けている日本で、チェルノブイリのようなことが、『起こるはずがない』とあの時は高を括っていた。だから・・・・ 「直ちに危険はありません。」 という発表も信じていた。専門家は必ず手を打ってくれると思っていた。   ところが発電所の門の周辺の放射線量を、X線撮影時の被曝線量や、ジェット機で米国を往復する際の被曝量と比較して発表をされるあたりから、恣意的なものを感じるようになり、落ち着いておれなくなった。  フランス政府は自国民の日本からの退避を勧告。
 三陸海岸沖に航行をしていた、米国の空母が沿岸から遠のいた。
  これらのニュースをインターネットの情報で知るにつけて、政府の正式発表だけでは安心できなくなった。
  
 出来ることならば、平成二十三年三月十一日を切り取ってしまいたいと思うようになったのは、それから数日後のことであった。


福島県いわき市  
 大阪の友人から、地震見舞いの電話が入る。互いの無事を確認した際に、福島県いわき市に知人がいることがわかる。

 なんでも屋内退避区域だそうで、外出はままならず、エアコンは使えないとか。食糧は近所で野菜を作っている人に分けてもらっているとのこと。水は使えるらしい。
 三月二十三日、高速道路の一般車両の通行が許可されるという報道を聞いて、米・茶葉・ペットボトルの水・カイロ・マスク・薬・お菓子などを詰めて、宅急便に配達をお願いしてみる。

 「いわき市内は警戒区域なので、個別の配達はできませんが、近くの営業所止めになら出来ますよ。」との返事を受けて、営業所まで受け取りに出かけてもらう不安はあったが、万が一届かなかった場合は、届いたところで使ってもらうことにして荷物をお願いする。
 これが届いたという連絡が入ったのは、四月三日であった。

 この時の電話の最中にも、大きな余震があったようで、電話の向こうで怯えておられる様子が伝わってきて、早々に電話を切った。


インターネット・週刊誌

 いわき市は放射能汚染がひどく立ち入ることが出来ないように報道されているが、電話で現地の様子を尋ねると、壊滅的な被害を受けている地域もあるがそうでないところもあり、原子力発電所からかなり離れている場所もあると言う。今では問題となっている飯館村や浪江町のことは、この時あまり話題に上らなかったように思う。

 報道では、いわき市は『風評被害』で、援助の手が届かないといっていた。しかし知人はごく普通の生活をしているから、大丈夫だと言った。
 インターネットの書き込みサイトや週刊誌の情報をむさぼるように見るようになったのは、三月の半ばごろからである。

 福島県庁での記者会見の内容に不満を訴えていたあるテレビ局の記者が、四月から登場しなくなった。一人の俳優が、突然テレビから姿を消した。御用学者と言われる人々が解説をする内容が、とても判りにくい。しかし、大変なことが進行をしているということだけは、直感で感じられる。
 ヨード剤に関する問い合わせあり。
 乾電池・飲料水のペットボトルが店頭から消えた。
 ガソリン不足がかなり深刻であったようで、書き込みサイトにも、とにかく燃料を調達して欲しいと何人もの人が書いていた。

 「妊婦・子育て中の女性・子供さんに家を提供します」と書かれていた人もあった。
 東北新幹線に援助物資を載せて行ける場所まで届けることは出来ないものか?と話題にしたが、現実にはできなかったようである。
 桜の季節を迎えたが、花見を楽しむ気分にはなれなかった。

 この頃死者は阪神淡路大震災の時を超えて、一万人に達するであろうと言われて、ひどく落胆した。
 やがてゴールデンウィークを迎えて、一人の人物の存在を知ることとなる。

京都大学原子炉実験所 助教 小出裕章先生
 この先生のことを教えてくれたのは、NPO法人「地球村」の代表・高木善之氏である。原子力発電所の全所停電の後すぐに、御用学者の言っていることは信用できない、小出先生の言っていることが最も信用できると、「地球村」通信に書かれていた。

 ところがテレビの報道にばかり注目をしていた私は、当初これに目を通すことはしなかった。連休になり、時間に余裕が出来てこれを見て、小出先生のことを知り、初めて原子力の専門家と言われる人の説明に納得をした。説明をしておられることは大変深刻な内容であるが、そこに正義を感じ、惹きつけられた。
 原子力発電所とか核分裂とかの世界とは無縁であり、およそ一生関わり合いになるとは思っていなかった。平成二十二年の秋に岡山市でも公演をなさられていたことを知ったのは、なんと原発事故の後であった。皮肉なものである。

 四十年以上、原子力発電所を作るべきではないと訴えてこられた反骨の学者である。
 学問をするということが、国家の権力との戦いになるなんて、知る由も無いことであった。原子力発電所の建設に反対をしたために、テレビ局の大スポンサーである電力会社に嫌われて、テレビには登場できない学者であった・・・。 

   その結果、多くの人々は大事故が起こるまで『原子力発電所の安全神話』を疑うことはなかった、と思う。  小出先生曰く、  「今回の事故は、原子力を選んだすべての大人に責任がある」と。
 さらに、  「子供には、今回の原子力発電所の事故の責任はない。しかし放射能の身体への影響は、大人の数倍も数十倍もある。だからなんとしても、子供への影響は少なくするように、大人の責任で子供を守らなければならない」と。


 いわき市はかつて炭鉱で賑わった街であったそうだ。エネルギー 源が石炭から石油に移行すると、住民は仕事がなくなり、街は寂れたと聞く。そんな時に原子力発電所を誘致して、多くの雇用も生まれたのだそうだ。
 今回の事故で東京電力は非難の矢面に立たされている。一方で「今までたくさんの援助を東京電力にしてもらって、事故が起きたからと言って、東京電力を攻め立てる地元の声はどうなのだろう?」という声も実際に聞く。
 いわき市の知人に現地の様子を尋ねると、東京などでは原発反対のデモが大々的におきているようだけど、もともと東北の人は自分のことを外に向かって表現するのが苦手だから、都会で行われていることやマスコミの報道に違和感を感じる、と話してくれた。さらに、原子力損害の申請書の記入がとても大変であると言っていた。しかし、放射能の被害はあったとしても、大人はここに住むしかないとも言っていた。
 「子供は?」と尋ねると  「そうよね・・・」と言い淀んでいた。
 福島原子力発電所で作られた電気の大部分は、大都会東京近郊で消費されていて、便利で快適な生活を応需したのは都会人であったのではないだろうか?  話を少し前に戻して、原子力発電所の燃料であるウランの採掘について、今回初めて知ったことがあるので、ここに記しておこうと思う。
 岡山県と鳥取県の県境に“人形峠”という場所がある。日本が原子力発電所を作ることになり、この人形峠のウラン鉱山が注目された。その後、この鉱山からは採算に見合うウランが採掘出来ないことが判り、鉱山は閉鎖されウランを含んだ残土が放置されたままになった。この事態に対して住民はその残土を撤去するように、国を相手取って裁判をし、結果「残土の撤去命令」が下されました。
 その残土の行方は?  ウラン濃度の高い残土は、日本国内で引き取り手がなくアメリカ先住民の土地に輸出(?)されたそうです。  なんかなあ・・・・・。

あかいわピーチプロジェクト
 今年の二月に出来たばっかりのボランティアグループの名前。 設立目的は、福島県の子供達を赤磐市に呼んで、こちらの子供と一緒に外遊びを堪能してもらうことを、大人達が援助すること。
 原子力発電所の事故が起きたということがわかった時点では、日本の技術力で何とか収束できると漠然と感じていた。しかし、時間が過ぎて暑い夏が来ても、長そでにマスクをして登校をする児童・生徒の様子を映像で見るようになるにつれて、今回の震災の被害を受けていない地域にはその地域なりの役割があるのではないか?と思うようになった。

 「晴れの国」と称される岡山県。 しかも白桃の産地である赤磐市。桃つながりで、「福島県の小学生を夏休みの数日だけでも受け入れられないだろうか?」と、処方箋を持ってこられる何人かに声をかけていたら、なんと今年に入ってすぐ、『山陽団地の青少年育成事業であるサマーキャンプに呼んであげては?』と言って下さる方が出現。
 急遽、夢が実現しそうな雰囲気になり、今はその資金集めをやろうという段階になっている。しかも今年一回だけではなく、これから毎年交流を持てるようにすることを考えている。
 住み慣れた場所で、友達とじゃれたり喧嘩をしたりしながら子供は成長をしてゆくのだろう。そんな様子を大人はほのぼのと観察し、時には声を荒げて叱って、日常が過ぎてゆく。昨年、山陽団地の夏祭りの様子を眺めていてつくづくそう感じた。今まで何でもないことだと思っていた情景が愛おしい。
 まだ出来たてほやほやの組織なので、多くの方々の知恵を拝借して、子供たちの笑顔を拝みたいと思っているところである。

 千年に一度という大震災に遭遇して、大人の責任について考え始めている。


専門家でない人は結論を求めたがるが、根拠となるデーターを公開されることが必要である。

 昨年五月、原子力発電所の事故に関して報道される内容に不安を抱いていた頃、神戸で開催されたシンポジウムの席上で元大阪大学総長、鷲田精一先生が発言された言葉。

 『どうすれば良いのか?』に対する答えなどない。何故ならば人類がかつて遭遇をしたことがない事故に出会っているのだから。  原子力に手を染めた時に、パンドラの箱を開けたのだという説もある。しかし、原子力に夢を描いた先人の努力まで否定をするつもりはない。
 翻って、薬でも同じだと思う。

 夢の新薬を求めるあまり、時には期待し過ぎて乱用し、とんでもない副作用を経験してしまう。サリドマイド・キノホルム・イレッサ・タミフル・・・。昨年は糖尿病治療薬の副作用問題が話題になった。根拠となるデーターの入手先を探ることが、難しいと感じる。
 ヨード製剤をうまく使えなかったことが、とても残念。

後 記
 貞観地震が起きたのが、八六九年七月九日(旧暦で五月二十六日)。この時に被災していない地域の様子について知りたいと考えましたが、資料を見つけることは出来ませんでした。その前年には播磨地震というのが起こっているので、備前地域も大変だったのかもしれません。

 昨年夏、突然思いついて牛窓のペンション一泊を計画しました。当初七月十九日を予定していたところ、時ならぬ台風到来で断念。一週間後の二十七日に牛窓泊。翌朝の瀬戸内海は穏やかで、早朝沖をゆく舟のポンポン・・・という音は大変のどかな響きで、一週間前の荒れた海は嘘のようでした。
 秋、毎年黄金色に稲穂を垂れる薬局の前の田んぼでは、収穫前に稲が倒れて刈り取られてしまいました。こんなことは初めてです。  また、春がやってきます。


発行日 2012年4月
発行者 赤磐市岩田63-1 さくら薬局
印刷 財団法人矯正協会