フィリピンとの国際交流

フィリピン バキオ

 バキオはフィリピン北部のルソンにある標高1,500mの高原都市で、この山岳地方の地域の中心的な存在です。
 そのバギオ開発の当初、道路建設で難渋したアメリカ人によって、日本からの移民はその建設を託されました。
 移民日本人は劣悪な労働条件のもと峻烈を極める自然と闘い多くの犠牲者を出しながら、ようやく道路を完成させたのです。

 道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン道路と呼ばれていますが、現地では日本人が造った道路として認識されています。

 この建設に従事した日本人の一部はフィリピン人と結婚するなどして現地に残りました。その中には事業に成功した人も多く、その結果、現地の日本人の地位は次第に向上し、第二次世界大戦が起こる以前の時代には、その繁栄はピークとなったのです。 

 しかし、第二次世界大戦以後、日本軍による、フィリピンの侵攻、植民地化、そして最終的には日本軍が敗走したことによって、現地日本人及びその子孫の立場は降格していったのです。

 彼等は山奥に逃げ込んで常に生命の危険に怯えながらの生活 を強いられ、その悲惨な生活は戦後なおも続きました。
 この様な生活下におかれた日系フィリピン人の方たちは満足な教育も受けることができず、社会進出は難しいものとなってしまったのです。

 現在、現地に住んでいる日系フィリピン人の方たちは日本からのボランティア団体によって日本語などの教育を受けています。
 このような歴史からバギオと日本人との関りは非常に深いものといえるのです。

日本人ボランティアからの手紙

日本人ボランティアの方からのお手紙を一部紹介しましょう。

すぐ下は峠。

その峠を見下ろす慰霊碑は夜にはほとんど真っ暗であろうような淋しい地にありました。
この峠が昭和20年、激戦の地であったと碑には記されています。
また、ここでの日米比の戦死者は計1万7千余名、ともあります。
ここから北に直ぐのサクラサク峠の日本軍を守るべく必死の戦いが繰り広げられ、多くの日本の若き兵隊さんが死んでいったと言います。
バギオも激戦地だったと言われますが、北へ追いつめられていった兵隊さん達はどんな思いでこの淋しい地で敵と戦ったことでしょうか。
借家の近くの散歩道から時々見える南シナ海。
一度逆に見てみたいと出かけました、ボロボロのバスで。 
でも、残念なことにこの日は雲が山にかかっていて我が住み家の辺りまでは見えませんでしたが。


サンフェルナンドへ行ってきました。

今年は雪が多く寒さも一入と聞く日本ですが、いかがお過ごしでしょうか。
こちら今日は室内でも寒く、長袖と長ズボンで仕事しています。炬燵が欲しいほどです。
さて、月曜日の仕事疲れの憂さ晴らしもあって、火曜日、港町のサンフェルナンドへ旅しました。
いつものようにバスで尾根を下ります。
一つ運転を間違えると千尋の谷へ
運転手がちょっと居眠りをしただけでも・・・。いつも考えるとゾッとします。


夜になるまでは半袖で過ごせましたが、流石に今は長袖です。

暮れから正月はとにかく騒々しいばかりでした。
爆竹、花火と四方八方からひっきりなし24時間、戦争さながらの騒音。いやあ参りました。
一連発、1000ペソ(約2800円)もすると聞く爆竹がそこかしこで爆発していました。
一握りの金持ちとほとんどの貧しい人と言われるようなこの国で、この1週間ほどの、空や地面に散った額は一体どのくらいだったのでしょうか。
人の財布とはいえ、勿体ない、もっと建設的なものに使えないものか、と嘆いた次第です。
さて、バギオの様子はうかがえたでしょうか…。

フィリピンからの手紙

ボランティア交流を通して、現地の日系フィリピン人の方からお手紙をいただきました。